〝描くのが好き、学んだことはない〟という

 

「独学アート」の作家さんで、

 

アートプロダクトの売上の一部を

 

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稲泉 治

Osamu Inaizumi

昭和12年(1937)、石川県金沢市の和菓子店に生まれる。

商社に入社するも、40歳ごろ、大手の伊藤忠商事に吸収合併されたことを機に退職し、奥さんの実家である富山県氷見市で暮らすことに。

結婚式場運営会社に入社して、出雲大社で講習を受けたのちに結婚式専任の神主を務めるが、ここで、五色ヶ原ヒュッテ(現在廃業)の当時の主人、佐伯功麿(ことまろ)氏(剣山荘の前主人)と運命的な出会いを果たす。

佐伯氏は、雄山神社宮司(当時)で旧宿坊家第四十九代当主・佐伯幸長氏の四男であり、自らも神主として登山のオフシーズンに同じ結婚式場へ時折仕事に来ていたのだが、その佐伯氏から「立山頂上の雄山神社で夏の間、神主をしないか」と誘われたのである。

立山頂上 雄山神社峰本社

 

正社員の地位を失うことになるものの、氷見市から海越しに仰ぎ見る勇壮な立山にただならぬ畏敬の念を抱いていた稲泉氏は、佐伯氏の誘いを受けることを決意。四十代半ばから立山の頂上で働きはじめ、以来傘寿(80歳)に至るまで、毎年夏を一万尺(3,000m)の天上界で過ごした。

立山頂上の御来迎(日の出)

 

絵画を始めたのは70歳ぐらいから。絵を描いていた亡き義父の画材が家に残っていたため、立山頂上に持参してみたのが契機となる。この特殊な職場では、頂上社務所で寝泊まりしながら数週間ずつ勤務するのが基本であり、夕方以降は自由な時間が多いことから、近くに自生する高山植物を、見よう見まねで描きはじめた。

頂上社務所

 

もともと毛筆の書が上手く手先も器用であったが、七十代からスタートしたとは思えないほどの画力がそれぞれの作品からうかがえ、驚かされる。実際に、地元の市展などでは何度も受賞を果たしている。

2023年(令和5)夏には、依頼を受けて長野県大町市にある知人の喫茶店で、約1ヶ月にわたり植物画の個展を開催(8/15まで開催中!)。購入希望者が現れたり地元の新聞で紹介されたりと本人も驚くほどの反響を呼ぶなど、「独学アート」作家としての才能をいかんなく発揮している。



[1]

剱岳(大汝山より遥拝)

 

剱岳の雄々しさを余すところなく描(えが)き切っています。

 70歳を過ぎてから絵画を始めたとは思えない画力です。

言葉にしがたい神々しさを感じるのは、

霊峰立山の頂上で長年神主を務めていた所以(ゆえん)でしょうか。

立山連峰の最高峰、大汝山(おおなんじやま)から拝した

剱岳の雄姿だそうです。 

[2]

立山夜想曲

 

立山での神秘的な夜の思い出をイメージして制作されたとのことです。

タイトルどおり、どこからか穏やかな調べが聞こえてきそうですね。 

[3]

春の階(きざはし)

(芦峅雄山神社・大宮)

 

氏は毎年、年末から正月七日ごろまで、

ふもとの芦峅寺にある雄山神社でも神主を務めていました。

その神明奉仕の合い間、境内の奥に鎮座する大宮へ足を運んではスケッチをし、

年始の勤務を終えてから長い月日をかけて、

この作品を仕上げたそうです。

雪国の山深い当地では、

正月ごろはまだ厳しい冬が始まったばかり。

しかしながら、暦はすでに〝春〟です。

かすかに、けれども着実に進みゆく春の気配の高まりを、

小さなお社に続く石段になぞらえて感じ取ったのでしょうか。

芦峅雄山神社へ初詣でに訪れたことのある人には、

なんとも心に響く作品でありましょう。 

[4]

ナナカマド

 

高山の秋を彩るナナカマド。

あたたかな中にも涼やかさを漂わせる色合いが、

日本を代表する霊山で永く聖職を務めた

稲泉氏の〝心〟を表しているかのようです。